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2021年1月31日日曜日

研修

 研修

 


実にさまざまな研修を受けた。後から考えれば私のような一兵卒にずいぶんお金をかけていただいたんだなあと思う。身につかず申し訳なし。いろいろな講師のいろいろな話を聞いたが、通常業務からの気分転換にはなった。さらに一つ二つの目から鱗もあった。きっと受けた研修の内容をレポートなどで再確認する作業をすればよかったのだろうと思う。研修を受けさせて受けさせっぱなし。私もそうだったし、部下にも復習を促さなかった。他人事だった。そういうことではだめなんだろうなと切に思う。もしも、これから何かを人から学ぼうとしたら、自分で身銭を切らなければならない。証券会社などが行う無料のセミナーもあるが、どういったものか、あまり期待できそうにもないが(販売目的のセミナーだろうから)いちど潜入し、レポートしてみるのもおもしろいかもしれない。いずれにしても勤め先にはお金をかけていただきありがたかった。せめてのロスカットは自分から申し出た。

2021年1月12日火曜日

師走2

 


師走と言えば、挨拶回りの季節だ。担当の頃はカレンダーを持って、一日に回れるだけ、次から次へと得意先を訪問して歩くこのシーズンが好きだった。世間が忙しいと言うほど忙しくもなく、売り掛けの回収などというような業種でもなかったので、何となく忙しい振りをして、今年も一年まあなんとかしたな、という気持ちで飛び回った。そのうち、役も付いててカレンダーもそれほど必要となくなり、また、制度的に五日間強制的に休まなければいけない制度ができたので、年末年始の休みにつけて十何日という連続休暇を取るようになった。つとめていた頃は本当にこの休みが待ち遠しくて、カレンダーに、この日は掃除、この日は古本巡り、この日は投資の年間の整理、などと書き込んで休日を有効に使おうと計画した。しかし、一日ぶっ通しは疲れるので、合間合間にノープランデーを入れて何となく一日寝ていたりした。何度も書いているが、休みが楽しみな気持ちと休みの日に何かを一段落させた充実感は勤めをしていてこそ強い。そして、休みの残りが少なくなるにつれて仕事の日々日常を思い出して気が重くなり、楽しみすら心から楽しめなくなる。明日から仕事という日にはもうどんよりと気が重く、できればもう二度と家から出たくないとも思う。布団にくるまって過ごしていたい。心からそう思ったが、それはきっと私にも職場にも不幸なことだったのだろう。今では、私の役目を誰かがしっかりと受け継いで私よりうまくやっているはずだ。私は私で、好きでもない仕事を強制されることがなくなり本当にせいせいしている。というわけで特に師走でもあわただしくもなく、今年はとりあえず年越しを平和に迎えられると思いたい。いろいろときな臭い世界情勢なのでその思いひとしおだ。

2020年12月10日木曜日

資産に関する試算の問いかけ

 資産に関する試算の問いかけ

 


単純な問いかけです。ある金額を投資すると月に三十万円もらえます。そのかわりその分、分配落ちになったり、分配落ちが続いて元本が徐々に減ったりすることが有りますが、相場の状況によっては分配を支払っても元本が増えていくことも有ります。このときに、その投資金額と同額の余裕資金をもっていたとしたら、あと二十年、この生活を続けていくことが可能と思われますか。単純に生活費ベースで、ほかの支出については別に資金が確保されているという前提です。あるいは、すべての資金を合計して、毎月生活費を取り崩して暮らしていくという方法も考えられます。この場合、収入はゼロになるので、国民健康保険料は最低額、国民年金は申請免除となります。その間、年金の受給が開始されてくるので単純に生活費三十万掛ける二十年の七千二百万円にはならないかと思います。もしも、あなたならばどの方法を選択するでしょうか。その一、投資と余裕資金でのやりくり。その二、持ち金の取り崩しによる無税、最低国保、年金免除生活。その一、その二、どちら? あるいは第三の方法、第四の方法、安全かつ冒険を極力控えた堅実な資産での生活方法。私は勤め人時代の休日の夜、こんなことばかり計算しながら明日の仕事への行きたくなさを必死に紛らわせて居たのだった。あなたならどうしますか? 

2020年12月5日土曜日

給料日

給料日


 

私がいた職場の給料日は毎月二十日だった。ほかは二十五日のところが多いようだが、給料日というと二十日と胸に刻まれている。思えば、今日は二十日で、給料をもらっている昔の仲間を少しだけ思い出す。給料日だからと言って特に飲みに行くでもなく、給料明細すら配られなかった。自分でプリントアウトするのだが、下手に情報が残っていて給料丸出し、なんてこともあり得た。事実、同僚の明細がコピー機に残っていて、ちらりと見ただけで机の上に伏せておいた。だいたい幾らなのかはわかる。忙しい、と言って人様に比べればほんのひとつまみの塩のような残業だが、それでも何十時間となれば給料はかなり膨れた。いわゆるサブロク協定を結んでいたので、その分まではきちんと残業も付いた。しかし、サービス残業をしている人間もいた。どこまでを仕事とするかは各自の裁量に任されていたので、それこそ、机の整理から残業にするものもいれば、自分が納得行かない仕事だったから、と残業をつけない人間もいた。しかし、上司は皆、した残業をきちんとつけるように指導していたので、自己申告と言っても変な残業の付け方をする人間はあまり聞かなかった。これからは残業もきっと力で抑制されていく。残業代がないと給料はいいとは言えない職場だったので、とくに、若い連中にとっては厳しい時代が続くだろう。 

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いつかのはつかに書いたものです

2020年11月23日月曜日

異動

異動


 

久方ぶりに外出をしたら、すっかり空気が秋に変わっていた。今年はほとんど夏を過ごさなかった、というようなことを妻に言ったら、今年はほとんど夏らしい日がなかったじゃない、と返され、ああ、そういえばそうだったな、と改めて思い起こした。曇りと雨。台風。九月になると夏が盛り返してくるかと思ったら、このまま秋に入るのか、それとも、季節はずれの夏が十月にくるか。十月と言えば、小規模な異動の季節だった。大規模な異動は四月にある。秋の異動は、基本的にないとわかっていてもやはり公示があるまでは落ち着かない。変則的な異動なので、異動者に対しての憶測もいろいろと飛び交った。しかし、遠くに行くことはまずない。四月の異動については年明けぐらいからいろいろと噂が出始めて、事実、上の方ではなにやら怪しげな動きが活発化するのだった。どうせ勤め人ならばそこまで上がればさぞおもしろかっただろう。と、同時に重責で私なぞは胃が潰瘍まみれになったことと思われる。器ではないのだ。そして、言われたところに、文句も言わずに飛んでいく。そこがたとえ山梨だろうと、文句も言わずに飛んでいった。どうせこうなることならば、ごねれば良かったかもしれないがもう遅い。山梨から帰ってきて四年で辞めた。同じ部署に三年以上いたことがないので四年目はもう飽き飽きしていた。おそらくは異動になって、どこに飛ばされるかわからなかったのも辞めた理由の一つであった。東京方面の満員電車に乗りたくなかった。そういう人生を送りたかった。 

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二年前の秋の話です

2020年10月31日土曜日

キーボード

 キーボード

 

鳴る。といっても音階ではない。かちかちと音がするPCの方。キーボードエンター音うるさい問題は浮上しては鎮静するが、直近のユニットで浮上していた。退職一年前に移動した部下がいて、その部下のおかげさまで私は慢性胃炎を患ったらしいのだが(胃の調子が悪いとは感じていたが、相当お仕事忙しいですか? と云われ、はぁ?


と思いつつ思い当たったのは当該部下の存在だった)そのキーボード音のうるさいことといったら。今思えば、いくつか気に障る置きみやげを残していったが、キーボードの爆撃音、とくにエンターバチコーン、と、仕事中にぽりぽり音のするものを食べる(煎餅など)は他の部員にも敷衍して、その後一年退職するまで苦々しく過ごす羽目になった。そもそも、キーボード音の問題は仕事が徐々にPC主体に移っていく中でたびたびビジネスマナーとして上がってきたことで、静かに叩くのは暗黙の了解となっていた。そこに平成生まれが職場に入ってきて、暗黙の了解とか、気を回すとかそういう目に見えないものの比率が仕事においてどんどん低下していった気がする。そう思うのは善し悪しの問題ではなく、相容れない価値観の衝突なのだろう。いつでも自分のことは棚に上げ、人のあらが見えてしまうのが何しろ器の小さい証拠で情けなくもあるが、そして、いまはもう云う術もないのだが「キーボードを静かに打て!」と一度彼女に云いたかった。


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まごうことなき老害

2020年10月18日日曜日

営業とラジオ

 


営業まわりをしていた頃、車内はラジオが楽しみのすべてだった。私はおもに文化放送を聞いていた。TBS派もいればニッポン放送派もいて、たまにNHKという人もいた。まだAMラジオしか営業車にはついていなかった。のらむらくにまるの朝ワイド(名前忘れた)梶原しげるのほんきでどんどん。吉田照美のやる気まんまん。やるまんはもうしばらく前に終わってしまったが、お助けマンというコーナーが好きだった。馬鹿馬鹿しい無茶ぶり企画なのだが、銀座の舗道に布団を敷いて寝る、とか、お茶の水の明治大学の裏門からはいってそっと薬缶をおいてくるとか、下ネタの言葉を混ぜ込んだ一般人へのインタビューとか、その時間はできるだけアポを避けたものだ。そしてちょうど事務所へのかえりに「おれにいわせろ」というみうらじゅんやえのどいちろうが放談するコーナーがあってそれもおもしろかった。すれ違うほかの営業車でもおなじものを聞いているのか、ふと横を見るとにやにやしたり大笑いしたりしている。あのころは道がものすごく込んでいた。今同じ道を通っても七割程度に時間が短縮されている。景気と交通量には相関があるという言うのが私の肌感覚で、確実に経済は当時より縮小しているのだと思う。外回りから内勤に異動になるとき、やるまんが聞けなくなるのが一番の残念だったが、録音してまで聞こうとは思わなかった。あれほどけなしていた小俣雅子と不倫報道がでたときにひどくがっかりした記憶がある。そのやるまんも遠い番組となり、FMもワンセグも、CDですら聞けるようになり、車が変わってCDが聞けなくなったと騒いでいる部下をみて、何しにきている、と心の中で思ったりしたが何のことはない、昔の自分がそこにいるのだ。

2020年9月9日水曜日

聞いてないよ

 聞いてないよ

 


聞いてないよ、と言われ、言ってないから、と思う。仕事上での「聞いてないよ」は得てして大きな問題になる。聞いてない=蚊帳の外=仲間外れ。どちらかと言えばそのラインでへそを曲げてしまうパターンが多い。私は、あまり気にしない。思い入れが薄いというのもあるが、結果がよければいいと思っているから。失敗をもくろんで先走りするひとはおそらく基本いない。連絡が前後した、筋を誤った、その程度のことだと思う。無断で話が進んでいたことなど数限りなくある。蚊帳の外に置かれることもしばしばあった。不徳のいたすところだろう。そしてうまく行かなかったときに責任を負わされたこともある。その上、当人は謝らない。オオケイ。なるようにしかならない。人と関わるからそうなる。関われば必ずそうなる。そして、その関係を続けて行かなくなってよくなってもなお、人間関係を広げていけるか。器の問題だ。

2020年8月26日水曜日

その程度の

その程度の

 

年輩者と若年者で商談に出向く。対応する相手は年輩者のほうとばかり話をして、若年者には目もくれない。そのときの若年者が自分だった場合、どう対処するだろうか。私も、若年者だった時、目もくれられない時があった。黙っていると、時々、そちらの方は何のためにここにきたの、などと言われるときもある。下手に口を挟んで黙殺に近い扱いを受けることもある。いずれにしろ、戸惑わされる。このようなシーンはよくあるのではないだろうか。どうすればいいか。相手の度量が低いと思って客観視する。これは、自分の度量もその程度と激しく自己嫌悪に落ち込む危険をはらむ。しかし、そこに気がつければまだ救いがある。私は、いまでこそそんなシチュエーションを客観視できるが、当時、その場ではあからさまに不快を感じていた。まあ、だからその程度なんだなとも思う。そこを前向きに考えて、修行と割り切って相手の話を傾聴し、ひとつだけでも自分の痕跡をその商談において残す、という気概があれば、私もその時点で一皮、ふた皮、向けていたのだろうと思うが、もう遅い。そんなとき、同行した年輩者が、私に向かって気を使ってくれることがよくあった。ありがたいことだと思う。その程度と蔑まされるか、度量の大きさを人に感じさせるか、自分の努力で幾分は変わってくると思われる。しかし、幾分は、としか思えない私がその程度の度量にとどまるのは自明のことと思われる。

2020年8月7日金曜日

未練

未練

 

何年かぶりに薬剤の助けなしに寝た。飲み忘れたのを夜中気がついた。そのまま飲まずにいた。寝たような寝てないような、夢うつつの中でまた、いつもの夢を見た。もう、とうに仕事を辞めているのに、未だに出勤してなんやかやと仕事の手助けをしている夢だ。もう、辞めているんだから、といいつつ同僚や部下の無理難題につきあって様々な所を歩いて回っている。夕べは、好意を持っていた部下が電話をかけてきて、何らかの仕事の連携をとろうとしているのだが、言っていることが伝わらず、何を言っているのかよく分からないとやりとりをしているうちに険悪な雰囲気になってくるというものだった。夢の中では、何で辞めたのに仕事に来ていて、誰もそのことを咎めないのか不思議に思っている。が、目が覚めて、改めて仕事をもう辞めたんだ、と思い直す。そのとき、ほっとしている気分と何だか、後ろ髪を引かれているような気分が半々で、辞めてよかったと思っているのに、何か、思い残しのような物もまだ相当心の中にあるのだなと少し切ない気持ちになる。あちらからすればうらやまれてもよさそうな立場なのに、なんとなく職場に残っている方をうらやましく感じる。こんな気分になるとは思わなかった。それもおそらく、相場からくる弱気のせいだ。おそらく、相場付きが自分のいい風に変われば吹き飛ぶような未練だろう。

2020年8月4日火曜日

会社、すきですか

 

会社が好きな人はいいと思う。自分の人生を賭けられる職に就いた人が人生での最大の成功者ではないだろうか。
嫌なこともひっくるめて打ち込んで、人生の大半を費やすに値する職に就ければ、これ以上の幸せはない。
しかし、そうでない人も多数いる。仕事は食べるために仕方なく嫌々するもの、ぜんぜんおもしろくないのに生活やしがらみやいろいろなことに縛られて身動きとれなくなっている。
嫌ならやめればいい。仕事は自ら面白くするものだ。というのは強者の理論に思える。
辞めてもどこでも通用する優秀な人材。
仕事を面白くできる才能のある人。
そういう人がどれだけいるのだろう。
確かにそういう人、いるのだけれど。
そういう人は大抵、人間的にも魅力があって、いつの間にか、収まるべきポジションにすっとはまっている。
そうでない人、それはマジョリティーだと思うが、嫌だから仕事を辞めると、どうなるのか。
いま、私はその立場にいて、割と仕事の夢ばかり見ている。しかし、あの生活に戻りたいとは思わない。もう人から拘束されたくない。そのためにない頭を振り絞る生活になった。
嫌でも辞められない人がたくさんいることを知っている。その人たちに、嫌なら仕事辞めればいいのに、とは言えないし、いっても会社から辞めさせられない限り死ぬほど嫌でなければどんよりとしてその仕事を続けるだろうことをわかっているので言う気にはならない。
会社、すきですか

2020年7月28日火曜日

会議の昼下がり

会議の昼下がり

 

今思えば会議の多い職場だった。会議のための仕事も結構あった。資料は分厚く、上層の会議になるに連れページが増える。幹部会議の資料を閲覧させてもらうと、単行本一冊分越え、堂々たるものだった。そして、その中では企業特有の文法が使われる。本部などはその作文にいったいどのくらい時間をかけていたのだろうか。厚すぎで読めたものではない。まあ、それは私レベルごときのことで、そうそうたる上層部はそれらの膨大な書類を吟味した上で、経営の舵を取っていたのだろう。それらの方針は会議として落とされてくるのだが、午後の会議では私がよく落とされた。ページは開かれたまま、首がガクンと崩れ落ちる。どんなにがんばっても落ちる。おそらく、睡眠時無呼吸で昼に落ちるというサイクルが慢性化していたのだろう。知り合いで強制的に空気を送る装置を夜つけるようになって昼に眠気を感じなくなった、という人がいた。私もそうすれば昼の活動クオリティがもう少し向上したのかなとも思う。やはり知り合いで無呼吸の人は睡眠時間自体も少なかったと思うが、仕事のし過ぎかどうか知らないがガンで若くして死んでしまった。今は、昼の眠気も寝て解消してしまう。会議の昼下がり、ぼんやりと毒でも薬でもない、人の意見を聞きながら、うつらうつらしていた日々が懐かしい。ならば意見を出せと言われればその通りだが、そのころは辞めることばかり考えていた。もう仕方ないか、という気持ちもあった。だからやはり、辞めたのは労使ともに正解だったのだ。

2020年7月14日火曜日

仕事がおもしろい

 

たぶん心から仕事がおもしろい、と思ったことが一度もない。それは不幸か幸か、よくわからない。いわゆる勤めから離れて、書き物をしたり相場の監視をしたり、たまに微調整したりで、何とかしはじめてしばらくたった。相場で稼ぐのは完全に個人的内的労働で、情報や決断など、判断を迫られる場面に事欠かない。そして数値でその日の結果がすぐ分かる。プロセスや手法はあまたあっても結果はひとつ、増えたか減ったか。今のところそれが自分の生にあっているかどうか分からないが、何かを人のせいにしたり、恨んだり、そういうストレスは完全になくなった。いわゆる組織での孤立とは質が全く違う。すべては勝ちのためにある。では今までいったい何を仕事で学んできたか。あまり思い出すことができない。ただ、仕事という時間の枷があったからこそ、余暇の密度が濃かったのは確かで、いまよりすべての娯楽が輝いていた。男の価値は仕事で決まる、といえば私の約三十年は無価値に近いかもしれないし、それでサラリーと退職金を持っていったのはあるいは不当といわれかねないかもしれない。しかし、その時間を、大切な人生の時間を就労時間に捧げたと考えれば、通勤やつきあいなどのその付随時間も含めて、売り渡したと考えれば、いや、それにしても対価は高いような気もする。仕事帰りに空想した甘美な夢の生活は急速に色褪せ、PCには移りゆく数字ばかりが赤に青に並んでうつろう。一畳半のコックピットのようなスペースに根をおろして、たまにキーをいじり、文面を綴る。それらを続けていく果てに何がおこるのか。思い描いた方向に人生が進むのか。その方向はどこか。わかっていたようでわからなくなっている。

2020年7月13日月曜日

安定

安定

 

私が勤めた職場は人からは安定している、と思われていた。入った当初はバブルで好調な企業の方が給料が高く、友人と比較しても収入は少なかったが、その後の不景気でどんどん他企業を追い越して上場有名企業には及ばないものの給料も相当な額になっていた。

そして人件費がかさんで早期退職募集となったわけだが、あくまで募集であり、全く圧力はなかった。

いまでは隠れた人気企業となっているようで安定志向の学生が毎年多数応募してくるらしい。しかし安定していて給料も上がったというのはたまたまでこれからはそうはいかないだろうと思う。

時代にめぐまれたわけだが別に好き好んでそうなったわけではない。単なる偶然だ。

安定はいつか崩れる。しかし誰もが安定を願う。出来れば高値安定を。安定に甘え、少しずつ土台が揺らいでも気づかない、というよりそのふりをする。厳しい想定を見ないことにする。

手を打たなければならないがその手が分からない。分かっても崩れる安定を嫌い先送りされ、その軋みはいつか大きく表面化する。ぐらぐら揺れる。最悪倒れる。しかし、安定の中ではそんなこと想像もつかない。そういう想像のつかない、しかし勉強はできた若い人たちが入社してくる。

そして上司評論家となる。仕事評論家となる。それは仕方のないことだ。

そして流れは自然に決まり、止めることは出来ない。安定が当然という時代ではなくなってしまうのだろうか。

安定を捨てた今、激流におびえつつ、密かにそれを期待もしている。

2020年7月7日火曜日

筆記具について2

いろいろな筆記具を使ってきたが、ある程度の太さの物が使いいい。細いシャープペンシルを使って受験勉強をしていたら、筆圧のせいか右手の親指が軸の形にへこみ、中指にペンダコができた。いまも中指にその名残がある。というと相当勉強をしたかと言えば冬休みから受験前までの二ヶ月程度でそうなったのでその間はまあそれなりだったのかと思う。手軽に書けるという意味においてはシャープペンシルが私にとっては一番なのだが、消せるものでメモを取らないと言う長年の勤めの慣習で手元からなくなってしまっている。で、今のお気に入りはピュアモルトシリーズのボールペンだ。ウイスキー樽に使われていた木を軸に使っているという触れ込みだが真偽はしらず、木の手触りが心地よい。手元に二本あるが、片方はひっかけるフックが邪魔なので折って折れ口をヤスリで削った。何かそういう工夫をしてみないと気が済まない質だ。ふつうのボールペンとゲルインクと二種。ゲルインクはぱっと見万年筆に書き文字が見えて便利だ。ひととき、自分にあった握り味を求めて、木切れを買ってきて自分で削ってペン軸の作成を試みたことがある。見た目と、自分の手と、木目と、納得のいく物はなかなかできない。軸ができても、肝心のペン先と書き味、これがしっくりと整うためには手作りでは相当な時間を要しそうだ。しかし、何かの惹句ではないが作り上げればそれは確実に世界で一本だけの筆記具となる。文具好きの人ならば試してみるのもいいのではないだろうか。もしとんでもなく退屈ならば。

2020年7月6日月曜日

筆記具について1

筆記具について

 

勤め人の時、なぜ、胸ポケットに誰も筆記具をしていないのか不思議に思っていたら、スーツの内ポケットに筆記具を持っているのだった。それに気がついたのはほんの勤めを辞める数年前のことで、内ポケットには手帳、胸ポケットにはボールペンというスタイルでずっと仕事をしていた。これはいかにも安サラリーマンという風情で、それはとくに外れてもいず、胸元をパンパンにして得意先回りをしていた。そういえば、パーカーのペンはペンのフック?が矢の形になっていて、すぐに分かる。私が勤めを始めた昭和後期は、たしかあの矢をスーツの胸元によく見た気がする。その当時は、まだスーツの胸にペンを刺していたのだ。ビジネスのツールにも流行がある。分厚いシステム手帳。インデックスがついて、きれいにそれが斜めに整っている。几帳面な人。仕事が遅かったりする。あるいはそれに注力して肝心なところが抜けているとか。私はずっと支給の手帳とボールペンを使っていた。が、途中からダイアリーが主の薄い、派手な色の手帳に変えた。胸元がかさばるからだ。夏のクールビズ、みんな手帳をどこに持っているのか。私はずっと胸ポケットなのでそこにないと落ち着かなかった。すべてを携帯、またはスマホで管理するという方法もあっただろう。しかし、やはり手書き派には移行に労力がかかる。さすがに文章を書くのは手書きではなくなったが、何にしろ紙と書くもの、それは身近に欠かせない。356


2020年7月3日金曜日

毎日がぎりぎり

毎日がぎりぎり

 

毎日がぎりぎりの状態があった。私はおそらく世間で言うところのブラック企業とは対極にある、きちんと休みも取れる、残業代も支払われるところに行っていたがそれでもあった。これは気の持ちようの問題で、こころのキャパシティが私の場合は大きくなかったのだろう。とくに人に指図する立場になってからは言葉の一つ一つがどう相手にとられているか、相手の表情を敏感に読みとっては一喜一憂し、しかし特に評価もされず、不満がチリチリとたまっていった。認められていると言う実感で人は生きていけると思った。逆に認められていなければどんどん追いつめられていく。それでも耐えた。私の泣き言など世間の他の本当にきつい仕事をしている大部分の人から比べれば甘チャンの寝言でしかないことは十分自覚していた。しかし、周りを見る余裕もなくなり、自分でいっぱいになり、勝手に自分を追いつめる、そのスピードも加速していく
。そして、何も受け付けなくなる。心が黒一色に塗り込められる。もう何も見えない。何も聞こえない。カレンダーをひとつひとつ数え、過ぎた日をボールペンで塗りつぶす。あと何年、後何ヶ月、あと何日、後何時間、何分。早く時間が過ぎ去ってくれるのばかりを待つ。何を言われようと攻撃としか感じられなくなった心で他人と接する。そのような状態になっていることを感じ取られないように。そうなってしまうと考えの選択肢が極端に少なくなっている。どうにかこの状態から逃げたいと思う。若いうちはここから逃げたら逃げる癖がつくと言う恐怖が逃げる気持ちに勝った。そして心も元に戻る力が若く強かった。年とともに耐えられなくなってくる。それでもみんな耐える。いろいろな事情で。確実に耐えてぎりぎりの人がどんな会社にもいる。電車の中でも立っているだけでやっとの人がいる。真っ青な顔をして、会議中も何も聞こえていない。そのひとの気持ちがわかる。私はわかる。しかしそんなこと甘えでしかない、と切り捨てる人がいて、その人が悪人ではなく、むしろ懸命に前向きに認められよう、会社をよくしよう、生活をよくしよう、家族を幸せにしよう、人生を充実させようとがんばっている人であることも分かる。同時に。その人なりのぎりぎりがあり、その人なりのまだまだがある。それらがない交ぜになり街に忙しく交錯する。暖かい部屋にいて、今のところ私はそれをライブカメラでぼんやり見ている。

2020年7月2日木曜日

お金をためてどうする

お金をためてどうする

 

投資は手持ち資金を増やす手段になり得る。逆に減らすこともあり得る。しかし、減らそうとして投資をすることはおそらくない。増やそうとしてするものだ。そうすると、お金を増やしてどうするのか、と聞かれることがたまにある。問題は、増やしたお金をどのように使うのか、だと。私の場合は、贅沢しようとか、豪遊したいとか、あまりそのようなことは思わない。せいぜい、好きな食べ物をいままでより多少高い頻度で食べたいぐらいの望みしかない。できれば、外車にも一度は乗ってみたい。しかし、別に新車でなくても良い。たぶん、一度乗れば気が済むと思う。では、私にとって、金とは。いやなことをしないで済むツールだ。仕事。別にいやではない。とくに営業などで数字が成果として現れる性質のものはわかりやすくて性に合う。大工など、ものができてゆくような仕事も魅力的だ。しかし、それに付随する様々な雑事、しなくてもいいような雑務、それが邪魔くさくていやなのだ。とくにサラリーマンは社内折衝などさまざまな交渉事や忖度、人間関係が漏れなく仕事に含まれる。そしてその割合は決して低くなく、私の場合は不快な思いをすることも、まあこれは自らの性格に起因する部分が多かったかも知れないが、少なからずあった。というより、ずっと仕事の基調に不快感があった。多かれ少なかれどこの職場に行っても同じことになるだろうことはこの年になれば嫌でも想像がつく。因果なことだと思う。そういった不快感、不機嫌から解放されるツールとして、金銭は非常に有効だ。生活の心配がなくなれば、確実にストレスは減る。生活の不安は九割方金銭で解決できる。別に生活の不安が今、消えたわけではない。定収入が無いことの方がよほど生活の不安を招く。しかし、今、今後のことはわからないが確実に言える。関わり合いたくない人間と関わらないことがストレスの九割五分を私から消した。この安寧の境地に早く至れてよかったと。これからのことはわからない。しかし、目途は立てている。それが保証されることがあらかじめわかっていたら、それはそれで面白くない。しかし、安寧が楽観を呼ぶ。今までの人生には楽観が欠けていた。誰かの本の題名ではないが、できればいつも機嫌良く生きていたい。それができなかった人生だから金銭というツールを用いて機嫌良い人生を生き直したい。

2020年6月29日月曜日

いつからヤメを意識したか

いつからヤメを意識したか

 

四十歳で人を使う立場になった。そのころから何となく違和を感じていた。それから十二年最後の方は違和感に圧倒されて、ほとんど押しつぶされていたので職場にとってはさぞかし失礼な存在だったろうと思う。しかし、表向きはそれを悟られないように努力した。その努力が仕事の数倍精神的にきつかった。ただ使われて仕事や上司のぐちを言っている方がどんなに楽だったか。数字という蓑も被れたので、上司などほとんど気にしなかった。それが、自分がその立場になりそういう態度をとられることもあり、ああ、因果が回るなあ、と感じた。職場には一定年齢での早期退職制度があり、最初は四十五歳以降の四月。ここで、自分の大まかな退職金の金額を知ることができた。また、リタイヤには難しい金額だった。そのころ、よく将来の資産のシミュレーションをした。保守的な計算だったが、五十五歳時点ではとんでもない金額の計算が仕上がった。その後の推移はやはり、そんな空計算の通りに行くはずもなく、損したり、あがったりでなんとかやってきた。次の早期退職年齢五十歳の翌四月には金額がぽんと示されただけで、その金額はほぼ予想通りではあったが、まだリタイヤには心許なかった。しかし職場はこんな金額だけの通知で、とくにこの年回りの人員をやめさせるつもりは無いのか、と思った。その一年後、特別な早期退職募集となり金額的に想定額を上回ったので思い切って辞めたというわけだ。この時点で、シミュレーションした資産と実際がほぼ一致したのだ。そして勤め人生活にさよならした。これからのことはどうなるか分からない。

2020年6月23日火曜日

あやまり

あやまり

 

誤り、謝り。誤りを謝る。何をや。いろいろな場面で謝罪の機会が降ってくる。自分が悪いときもあれば、人がしたことを代わりに謝る。いろいろな謝罪を行ってきたが謝罪には自信がある。謝罪のこつはただ一つ、心から謝る。謝罪心の固まりになること。一つ間違うと訴訟沙汰になりかねない部署にいたことがあったが在籍期間一度も訴えられなかったことは数少ない自慢の一つだ。

謝りに自我は不要。相手に申し訳ないと本当に思う気持ちだけ。しかし知性は必要。謝りにはたいてい相手の主張をはねのける任務がセットとなっている。謝りつつこちらの主張は通す。最大限被害を食い止める。最高の知的作業。評価されない最重要任務。

かんかんに怒っている相手と最後に笑顔で握手して別れる。そんなこと数え切れないほどあった。むしろそれができない時は敗北感を味わう。しかしいずれにしても心は芯から疲れる。やさぐれる。私は酒を飲まないのでどのように憂さを晴らすか。特に晴らさない。日が過ぎ、忘れるのを待つだけ。

数限りない醜い罵声を浴びてきたがいまはもうほとんど思い出せない。何も心に残っていない。つまり心はなんのダメージも受けず別に美しいわけではないがとくに汚されないままでは居れた。